芋の独り言

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存在の同定

涼宮ハルヒの憂鬱の映画を撮ろうっていう一連のハナシ で,古泉が「我々が存在するのは涼宮さんのおかげでしょうね」 (アニメの『涼宮ハルヒの溜息Ⅴ』でのキョンの問いかけに対する古泉の回答) っという事を言っていたが, シュレディンガーの猫にあるように量子世界では それが誰かに観測されてはじめて事象として成立して確定する っていう事だったと思うのだが(『シュタインズ・ゲート』でもそういハナシをしていたなぁ), そうであるとすると『涼宮ハルヒの憂鬱』における古泉・長門・朝比奈さんの 超常的存在の存在はキョンおよび作中外の我々読者が観測することによって その存在を固定しているものであって ハルヒの現実改変能力によるものではない, っということになるんじゃないかと, ふと,思ったのだが...?

我々からしたらフィクションの世界の存在は, 制作携わる我々の世界の存在が制作過程で認識することで 初めてその存在を確立させ, さらに,読者や視聴者がその作品を視ることでよりその存在を確かなものにする. また,フィクション世界の中でも各々が互いにその存在を観測・認識しなければ 存在しないことになる. 上述した過程が無ければその存在は固定されない. 『涼宮ハルヒの憂鬱』でいえば, SOS団やその周辺の人物は作中内で互いにその存在を認識しているし, 製作スタッフや読者・視聴者も認識しているが, 作中内で一切出てこない 例えばキョンの両親やハルヒや国木田・谷口らを除くクラスメイトは 誰も観測していない以上は存在しないことになる. もしくは存在はしているがその存在が確定・固定されたものにはなっていない.

我々の世界でも同様だろうか? ここで仮に我々の誰もが認識していない人物がいるとする (その人物が生命でありその人物を生んだ母親がいる以上は そのような存在は 我々の世界に存在し得ないわけですが, 仮定のハナシならば問題ないでしょう). その人物は存在しない存在なのか. 我々の世界がフィクションの世界と同様に, 我々の世界を外側から覗く存在がいて, 我々の誰もが認識していない人物を観測していたならば. その人物は我々の世界に確かに存在することになる.
...
と書いたものの,私は何が言いたかったのか...???

まぁ,なんにせよ,我々の世界であれば, 生まれ出でた瞬間にどんな存在も存在しており, 存在していない存在などない, 誰かが認識している, 決して孤独じゃない(とはいえ生きてたらそう感じることは誰しも多々あるよなぁ. 存在を認識されていても,意思疎通ができなければそう感じるのだろう.) っということを言って結論とするかぁ.

しかし,まぁ,涼宮ハルヒシリーズにしてもシュタインズ・ゲートにしても 作者はどのような思考回路で 作品を通して複雑な思考実験を完遂させ言語化させているのか? 常人には理解できませんわぁ...